STORY 50:Are you ready, MISATO?






「ぷはぁ・・・やあっぱり朝はビール!ビールよねぇ!!」
 右手に缶エビチュビールを持ち、左手では冷凍の枝豆をつまみ、ミサトは幸せ感をその顔一杯に浮かべてそう言った。
 朝からビールを飲むなんて人間のくず、という言葉はミサトに関しては当てはまらない。フランス人にとってのワイン、
ドイツ人にとってのビールと同様に、ミサトにとっても「水」に近い感覚であった。
 もちろんここは21世紀とはいえども日本。ミサトがいくら「水」という意識を持っていたとしても、周りの人たちが
どのように見ているかは別問題ではあるのだが…。
「ミサトさん・・・給料、また減ったんですから、ビールの本数は減らして下さいね」
 気持ちよくビールを痛飲するミサトに対して、朝食の皿を片付けていたシンジがそう告げた。
「う・・・・給料はシンちゃん達にも原因はあるんだから」
 ビールを飲む手を一瞬止めて、ミサトは不服そうな表情を浮かべる。
 つい先日の悪夢がミサトの脳裏によみがえる。
 悪夢と言っても、シンジとアスカが居なくて大捜索していた時の事ではない。
 むしろその後、数日後。
 本部構内の最上階に形式的に存在する主無き所長室に呼ばれたミサトが見たのは、巨大なスクリーンに映し出されて碇
ゲンドウの姿だった。
 厳しい表情を崩さぬまま、机に両の肘をつき手を顔の前で組んだまま。
「シンジと、そして何より惣流くんの娘さんを無事に探してくれて、すまない」
「いや、その・・・どういたしまして」
 比較的に苦手とするゲンドウに礼を言われて、ミサトは返答に困る。元々はミサト達、本部職員の不手際から始まった
騒動であることも、ミサトの言葉の歯切れを悪くする。
 と、スクリーン形式のTV電話の向こうで、誰かの白い手がすっとのびて、ゲンドウの前に紙を置いた。
『ユイさんかしら』
 見慣れた手にそう思うミサトを無視したかのように、スクリーンの上で、ゲンドウは横を向いて
「あぁ・・・これで問題ない」
 そう呟いた。
 そしてやおらミサトの方へと向き直り、再び口を開く。
「大事にいたらなかったのは、葛城広報部長の働きに負う所が大きいな。その・・・」
 そこでゲンドウは気恥ずかしげにゴホンと咳をしてから言葉を続けた。
「・・・妻のユイもそう言っている。という事で・・・・」
『ま、まさか・・・昇給?』
 失態という事で何らかの処分を覚悟していたミサトの心が、急にぱぁっと明るくなる。
 そしてわくわくと、目を輝かせながらゲンドウの次の言葉を、待つ。
 待つ。
 待つ。
 そして。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10分の1の減俸を3ヶ月」
 長い沈黙の果てに、TV電話の向こうでボソりと碇ゲンドウが呟いた。
「へ?」
『昇給』という単語を期待していたミサトの大脳皮質は、一瞬動作停止をしたかのようにゲンドウの言葉の受け入れを拒否する。
「減俸」
 そんなミサトに追い討ちをかけるように、ゲンドウはもう一度、短くそう言った。
「それはそれ、これはこれ、だ。以後もよろしく頼むよ、葛城広報部長」
 その言葉を聞いた瞬間、ミサトの脳裏に、上がっては落ちてを繰り返すジェットコースターのイメージが浮かんでは消えた。
 そんな数日前の風景を思い出したミサトは、「ふぅ」と小さく溜息をつく。
『いやーな事を思い出しちゃったわね・・・・減俸・・・』
 だがそんなミサトの心情など判るはずもなく、シンジは明るい表情のまま肩をすくめる。
「でもあれだけ堂々と扉が開いていたら、はいっちゃいますよ・・」
 その言葉を聞いていたのか、首にバスタオルを巻いたアスカが洗面所から顔をぴょこんと出して会話に加わった。
タオルドライしただけなのか湿り気を帯びた髪が無造作に流れている。
「ミサト達があれだけ『入って欲しくないところには入れない』って言ってたじゃなぁい。そんな状況で扉が開いてて、
入っても警報もならないんだもん。いっくら大人しいアタシ達だって入っちゃうわよ」
「そう・・・だね」
 苦笑しながらシンジも相槌を打った。
 シンジだけならまだしも、シャワーを浴びにいったはずのアスカまで加わられては、明らかにミサトに戦況は不利である。
「まぁ・・・シンちゃんとアスカには迷惑かけたわね。本当にすまないわ」
 なんとなく自分の旗色が悪くなりそうな雰囲気を感じ取ったミサトは、さっさと頭を下げてしまう事にする。とりあえず
先日のNERVでの騒動の非は認めてしまい、それよりも重大な「ビール本数の減量」という話題から視線を逸らしてしま
のが狙いである。日常生活の様々な局面で、その局面のよしあしを瞬時に「よろし」「わろし」の二極に分別して判断して
しまうのは、良くも悪くも、戦自出身のミサトの職業病なのだろう。
 だがそんなミサトの戦略を見て取ったのか、それとも天然の才能なのか。
 恐らくは後者なのだろうが、シンジはにこやかな顔でミサトに向かって声をかけた。
「じゃあ来月から、ビールの本数は減らして下さいね」
「いや・・・・それはその・・・・」
 結局のところ、避けたかったビールの本数の話題に戻ってきてしまい、ミサトは渋い表情を浮かべる。
 確かに最近は、認めたくは無いが、年を重ねたせいか飲んだ後の疲れが抜けにくい事にミサトは気がついていた。だが健康
診断でもなにも悪いところは出ていないし、大好きなビールを減らすのは人生の楽しさに関わる大問題である。
「飲んでこその人生なのよねぇ・・・」
 ミサトは宙を見つめて考え込む。「Drink or Die」というミサトの人生のキャッチフレーズが頭をよぎる。
『とにかくシンちゃんを丸めこまないとね・・・』
 戦略自衛隊に葛城ありと言われたその脳をグルグルとフル回転させながら、ミサトは考え込む。
 と、そのミサトの肩を、ポンと小さな白い手が叩いた。
「ミサト・・・シンジに丸めこみは通じないわよ。だってあの間は、どう考えても天然だもん」
 洗面所から出てきたアスカであった。髪を乾かし終えたのだろう。蜂蜜色の綺麗な髪を両の耳の上で軽く結い、それにより
形の良い耳と顎のラインが露になっていた。
 まさにたった今まで考えていた「いかにしてシンジを丸め込むか」という事など、あっという間にミサトの脳裏から吹き
とんでしまった。
『こりゃぁ男なら誰でも夢中になるわ・・・・』
 女性であるミサトが見てもそう思うほどに、アスカは可愛らしかった。NERVの広報部長として、様々な会社や研究機関など
に出向いて数多の受付嬢、すなわちその会社の顔となる美女を見てきたが、将来の成長分まで加味すれば、アスカを越える
女性などいないように思える。
『とっころが』
 炭酸が抜け始めて、苦味が強くなってきたビールを軽く舐めてから、ミサトは半眼でチラリと視線を動かす。
 動いた視線の先には、シンジ。
 軽く鼻歌など歌いながら、皿を片付けている。
『シンちゃんは・・・なんだかいまいち、アスカにはまらないわよねー』
 もちろんミサトも、シンジがアスカを意識している事くらいは判っている。だが、普通なら、少なくともミサトが健全な
青少年であれば、今ごろは一つ屋根の下で暮らしているアスカの魅力にメロメロだろう。
『むー』
 心の中で小さく溜息をついてから、残ったビールをグイと一気に喉の奥に流し込む。炭酸が抜け、手の平の熱で温まった
ビールは、もはや爽快感など欠片も無く喉の奥へとただただ落ちていく。
『だからって・・・それもねぇ・・・』
 完全に空いて軽くなった空き缶の縁を歯で加えてプラプラと揺すりながら、ミサトは宙を見据えた。
 先日、シンジの父、碇ゲンドウから聞かされた言葉が頭をよぎる。
『なぁんだか・・・ねぇ・・・』
 手の平を頭の後ろで組み、器用に空き缶を口でプラプラゆすりながら、ミサトは右に視線を動かす。
 視線の先にはカレンダー。
 丸の付いた日付。
『なぁんだか・・・なぁ・・・』
 ミサトはもう一度、心の中で嘆息した。
『理解できないっつーか・・・なんつーか・・・はぁ』
 思考停止寸前になりかけたミサトの意識を引き戻すかのように、唇に挟まれていた空き缶がスッと抜き取られた。
「まぁったく、ミサトったら朝からなに黄昏てんのよ!」
 すっかり着替えを済ませたアスカが、白い手をスイと動かして、ミサトの唇から抜き取った空缶を宙に放る。
ミサトと、アスカと、そしてこちらも着替えを済ませたシンジの視線を全て集めて。
 空缶は盛大な音を立ててゴミ箱に吸い込まれた。
「うわ、すごいよ、アスカ!」
 一番最初に歓声を上げたのはシンジだった。
 その声を受けて、アスカの表情が得意げなものへと変わっていく。
「あったりまえじゃない!」
『はぁ・・・このくらいでもいいんだけど・・・ねぇ』
 無邪気な二人の様子を見て、ミサトは三度、心の中で嘆息した。だが自分が嘆息してもどうしようも無いことに気が付く
くらいには、ミサトは大人である。
 顔に満面の笑みを浮かべてミサトはシンジとアスカに向きなおった。
「で、今日のご予定は?」
 シンジとアスカは顔を見合わせる。最初に口を開いたのはアスカだった。
「アタシはコムトジュールで、レイとお茶する予定よ」
 ちなみにコムトジュールとは、最近人気が出てきたパティスリーで、焼き菓子が美味い事で有名である。
『どちらが店を決めたのかは判らないが、さすがは女の子ねぇ。リサーチが行き届いているわね。』
 ミサトはそう舌を巻く。ミサトが友人のリツコと出かけるのは、大概はNERV近郊の昔ながらの喫茶店である。
『大人になると、コンサバティブになるのかしらね』
 そんなミサトの心の内など知らないアスカは、「シンジはどうするの?」と言いたそうにシンジへと瞳を向けた。
 その動きにつられてミサトもシンジへと視線を向けた。
「えっと・・・適当なところでカヲルくんとお茶でも飲もうかと・・・」
『適当な・・・って』
 思わず半眼でツッコミを入れようとしてしまうミサトだが、彼女よりも圧倒的に早く、アスカが口を開いていた。
「アンタねぇ、適当ってなによぉ」
「えぇ!?その・・・だって、喫茶店なんてよく判らないしさぁ・・・」
 頭をかきかきシンジはそう言う。
「シンジ、そんなんじゃデートの時に困るわよ!」
 ビシィっと音が出そうなほどのオーバーリアクションでそう言うアスカに、シンジが何故か頬を若干赤くしながら
言葉にならない言葉を返す。
「えっと、そのぉ・・・・」
 そんなシンジの様子を見てミサトは心の中で、今日になってから何度目か判らないほどの嘆息をついた。
しかしそれを実際の吐息にする事無く押し留め、笑顔でアスカとシンジに言葉をかけた。
「まぁまぁ。シンちゃんとアスカがデートすれば、場所に困らないでいいんじゃないの?」
 それに反応してアスカが頬を赤くして、口をパクパクさせながらミサトに食ってかかろうとする。その斜め後ろでは
シンジも顔を赤くしているのだが、それはアスカの視界には入っていないだろう。
 そんな二人の様子をみて肩を竦めて笑顔を浮かべてからミサトはすっくと立ち上がった。
 そしてなにやら言いたそうなアスカと、沈黙してしまったシンジの肩をグイグイと押して玄関へと向かわせる。
「待ち合わせ時間に遅れちゃまずいでしょ。さ、早く行きなさい」
「そんな、無理に、押さなくても、いくわよ」
 アスカは口を膨らませて不平を言いながら体を折ってローファーをすらりとのびた脚の先にひっかける。
 ミサトはアスカがローファーをしっかりと履いたのを確認してから、二人に向かってハタハタと手を振った。
「じゃ、いってらっしゃい」
 手を振ってからミサトはふと、ある事を忘れていた事に気が付いてポンと手を打った。
『そうだそうだ、忘れてた』
 ミサトはキュロットパンツのポケットから2枚の2000円札を引っ張り出した。
 そして皺を軽く伸ばしてから、一枚づつシンジとアスカに手渡す。
「一応、お小遣いよん。まぁ美味しい物を食べてきてね」
「えーっと・・・ありがとうございます、ミサトさん」
「ありがと、ミサト」
 シンジとアスカは素直に頭を下げる。正直な話、中学生レベルの喫茶店などに行くと資金繰りが困難なはずである。
ミサトがくれたお小遣いはありがたいのだろう。
「じゃ、行って来るわね!」
 アスカはエアロックを開けると、スカートをひらりと翻し、元気よく飛び出していく。
 そしてそれにシンジも続く。
「あ、じゃ行って来ます。ミサトさん、ビール飲みすぎちゃだめですよ」
 しっかりと釘をさしてから、シンジは外に出て行った。
『パシュン』とエアロックが閉じる音を確認してから、ミサトは肩をすくめた。
「さぁてと」
 施錠してから部屋に戻り、ミサトは大きく伸びをした。
 それからミサトは着ているものをポンポンと脱ぎ捨てて、全裸になってバスルームへと向かう。
 これだけは、誰もいない朝しかできない最高の贅沢。
「まぁ私が悩んでもしょうがないし、とりあえず風呂に入りましょっかね。朝酒朝風呂、極楽ごくらくぅ〜」
 親父臭い台詞を吐きながらミサトはバスルームの扉をパタンと閉めた。
 葛城家の朝は、事も無く過ぎ去っていった。
 窓の外の遥かな空の高みで、綿飴のような雲は、ぷかりぷかりと流れていった。



 お昼前のコンフォートマンション、葛城邸。
 そこには小さな声でブツブツと呟きながら書き物をするミサトの姿があった。
「・・・であるから、動的インタラクションを可能にするインタフェースが必要と思われる、と」
 手元の白紙にアイデアを殴り書きしては、訂正し。先程からそれだけを延々と繰り返していた。
 そして書き起こしたアイデアをしばし半眼で眺める。
『だめだこりゃ』
 心の中で赤信号がくっきりはっきりと点灯し、ミサトはアイデアをボツにすべく手を動かし、紙をクシャクシャと丸めた。
そしてそれを、今朝のアスカのように、華麗なフォームでゴミ箱へと投げ込む・・・・少なくとも、投げ込んだつもり
だったが、ミサトの手を離れた紙屑は、それまでの幾つかの前例と同じくゴミ箱をわずかに外れて転がってしまう。
 それを目で追って小さく嘆息してから、ミサトはペンを置き、椅子に座ったまま大きく伸びをする。
「ふぃー・・・在宅勤務も楽じゃないわねー」
 疲れきった表情で、ミサトはゆっくりと大きく伸びをした。
 と。
 伸びきったそのときに。
「ジリリリリリリリリン・・・・・」
 電話の呼び出し音が静寂を破った。
「ぬぁ!?」
 不意に響き渡った音に対して体はビクリと過大なまでの反応をしてしまう。それが丁度、伸びをして体が伸びきった所だった
のがミサトのツキのないところだった。椅子に腰掛けていたミサトの体の微妙なバランスは一気に崩れてしまう。
「あっ、ほいっ、よいっ」
 バランスを立て直す暇もあればこそ。ミサトは『ドンガラガッシャ』という古典的な、しかも派手な音を立てて床に転げ落ちた。
「あ・・・・っつー・・・」
 痛烈に打ち付けた膝を見て、とりあえず現在の所は、青痣にはなっていない事を確認してほっとする。
『若くなくなると、怪我の治りが悪いのよねー』
 心の中でそうぼやきながら、ミサとは鳴りつづける電話に向かう。
「はい、葛城ですぅ」
 いつものとおりの御気楽な調子で受話器を耳に押し当てたミサトの表情がスッと引き締まる。
「あ、ユイさんですか?」
 受話口と電話線の向こうに居るのがユイであると知って、表情のみならずミサトの背筋もスッと伸びた。ユイとは友人でもあるが、
それ以前に絶対の上司でもある。テレビ電話ではないし、姿勢を正そうが正すまいがユイには違いは判りはしないのだ
が、それでも電話口でかしこまってしまうのはいつの世も同じのようである。
「あ・・・はい・・・・ええ、その件でしたら順調に・・・はい」
 頷きと同期して電話機に頭を下げていたミサトであったが、不意にその表情が複雑さを帯びたものになる。
「所長とユイさんの仰る通り、一応、押さえておきましたけど・・・・」
 歯切れ悪く、ミサトはそう言った。歯切れの悪さが、ミサトがあまり乗り気では無いことを示している。
「えぇ・・・そう・・・ですね・・・でも・・・」
 しばし言い淀んだ後に、意を決したようにミサトは口を開いた。
「でも・・・男と女ですし、万が一って事も・・・・」
 その脇を、今起きたばかりの飼いペンギンがスタコラと進んでいき、冷蔵庫から自分の朝食の魚を取り出して
またスタコラと部屋へと戻っていく。
「えぇ・・・・・はい!?・・・あぁ・・・まぁ、そうですけど」
 電話線を通じて遥か向こうにいるユイが何を言ったのかは判らないが、ミサトの顔に驚きの表情が浮かび、
そしてそれがフッと消えて、いつしか苦笑交じりの笑顔へと変わっていく。
「さすが・・・母は強し、ですね」
 その後しばし雑談をしてから、ミサトは電話を切った。
 そしてフゥと大きく溜息をついてから、テーブルへと戻り、椅子にどっかと腰を落とす。
「はぁ・・・キョウコさんもユイさんも・・・ホント、母は強いわね・・・」
 そう呟いて二人の顔を脳裏に思い浮かべる。どちらも若く美しい、素敵な女性である。
 だがその芯は、強い。
「はぁ」
 もう一度、嘆息してからミサトは立ち上がり、冷蔵庫を開けた。中に並ぶエビチュビールと麦茶の缶。いつもなら
ビールを選択する所であるが、今日は迷い無く麦茶を選ぶ。心地よい冷たさを手に感じながら再び椅子に座り、プルトップを
引き上げて口を開き、麦茶を喉に流し込む。
 いつもシンジが沸かしてくれているものに比べると香りが若干は落ちるが、市販品であれば仕方のないところだろうか。
「なるようになる・・・・ね」
 半分ほどにその重さを減じた缶をテーブルの上に置いて、ミサトはまた一人ごちる。
「ま・・・わたしが悩んでもしょうがないわね。若い二人におまかせしましょう」
『ぽん』と手を叩いてそう結論づけてから、ミサトは立ち上がった。
 そして先程、電話中に気になっていた、電話台周りの書類や領収書の山を片付け始める。
「それにしても・・・」
 数ヶ月前の朝売新聞の領収書を握りつぶして丸めながら、ミサトは苦笑を浮かべた。
「わたしは他人のキューピッドなんかしている場合なのかしら?」
 3人分の携帯電話の領収書、ガス料金の領収書などを一手にもってゴミ箱へ放り込む。
 そして腰に手を当てて宙を軽く一睨みしてから、また苦笑いする。
「二人の年齢を足して、わたしの年齢・・・ってか・・・結婚式には呼ばれたくないわね・・・」
 再び必要物と不要物の選別をはじめながらミサトはそう呟いた。
 と、その視線に、薄茶色をした薄い紙が現れる。なぜかそこにある旅行ガイドに挟まれた、薄い紙。
 余りに見慣れたその質感。
「あ」
 慌ててミサトは旅行ガイドを手に取り、挟まれた紙を引っ張り出した。
「おぉ!・・・・いやっほう!」
 現れたのは、壱万円札であった。なぜ旅行ガイドに挟まれていたのかは定かではないが、間違う事無く壱万円札である。
「るぁっき〜!!福沢さんよっ、ふっくざわさん!!ふっくざっわさっん!」
 ミサトは本の隙間から現れた福沢諭吉の壱万円札を左手にもちながら小躍りする。
「さぁて、なにを買おうかしらぁ?あのスカートもいいわねぇ・・・それともTシャツ??」
 ミサトの脳裏を様々な物欲が通り過ぎては消えていく。
 しばらくは浮かれた様子で部屋中を歩き回っていたミサトだったが、ふと脚を止めて真顔に変わった。
 珍しく真顔になったミサトを、変なものでも見るかのような視線で眺めながら、飼いペンギンのペンペンが風呂場へと向かう。
ペンペンが風呂に入ってさらにしばらくたってから、ミサトは苦笑いを浮かべて、肩をすくめた。
「ま、たまにはサービス、サービス」
 そう言ってからミサトは電話の受話器を取り、軽くボタンを押し込んで、どこかへダイヤルする。
 トントンと電話を指で軽く叩きながらリズムを取っていると、受話器の奥のスピーカーが「ブッ」という独特の音を立てて
回線が繋がった事を知らせる。
「あ・・・アスカ?」
 どうやら電話の先は、レイとお茶を飲みに行ったアスカのようである。
「えぇっとね・・・・急になんだけど、お昼でもどう?・・・・・そう・・・・もちろんよ・・・・・レイちゃんも?」
 ミサトは手元の一万円札に視線を落として苦笑してから言葉を続ける。
「ま、いいわよ」
 ランチであれば、ミサト、シンジ、アスカ、レイの4人で行ったところでまぁ足は出ないであろう。
「まぁ、いろいろと臨時収入がね」
 電話の向こうから聞こえてきた声にミサトは苦笑の色を浮かべながら言葉を続けた。
「アスカ、シンちゃんにも電話しておいてくれる?・・・・・じゃ、1時間後にキルフェボンの前って事で・・・・
そう・・・・もちろん、なんでも好きなの食べていいわよ・・・・ん、じゃあね」
 ガチャリと受話器を置いてから、ミサトはフゥと小さく息を吐く。そして名残惜しげに福沢諭吉に視線を向けた。
「まぁ・・・あの二人には世話になってるものね」
 当然の事ながら、ミサトの呟きに対して紙幣の中の福沢諭吉はなんの返事もするわけはない。口をへの字に結んだまま、
あらぬ中空を見つめたまま視線を合わせようとはしない。
「さぁてと・・・・出かける準備でもしましょうかね」
 ミサトはそう言うと、自分の居室へと軽やかな足取りで向かう。
 ふわりと髪がゆれて、涼やかな風が流れた。






「ふぃー・・・それにしても暑いわねぇ」
 愛車をコインパーキングに止めてから待ち合わせ場所へとテクテクと歩くミサトの頭上に、陽光が燦燦と残酷なまでに降り注ぐ。
「いやー、まじやってらんないわ」
 さっきまで居たエアコンの効いた室内とは全く異なる過酷な環境に、ミサトの体が悲鳴を上げる。
「夏はエアコンの聞いた部屋で素麺食べているのが一番ねー」
 そんな親父くさいことを考えていると、視線の向こうにアスカとレイの姿が見えてきた。
「ヤッホー、アスカぁ、レイちゃーん」
 大声でそう叫んでブンブンと手をふると、アスカがなにやらがっくりしたかのような表情を浮かべたのが遠目にも見えた。
『あれ?待たせちゃったかしら?』
 そう思ったミサトは二人の前まで着くと、開口一番、待たせた事をわびる。
「ごっめーん、待った?」
 するとアスカはがっくりとした表情のままで、
「いや、待ってはいないんだけど・・・」
 とだけ答える。
『?』
 なにがなんだかわからないでいるミサトに向かって、隣に居たレイが律儀にペコリと頭を下げた。
「葛城さん、こんにちは。今日はどうもご好意に甘えてついてきちゃって、すいません」
 そんなレイに向かって、ミサトはハタハタと手を振って見せた。
「いいのよぉ、たまにはパァーっと使わないとね、パァーッと」
 するとその言葉にアスカが「それでいいのか」といいたそうな視線を向けた。
「あんまりパァーっと使うと、シンジにまた怒られるわよ」
「うう・・・それは」
 アスカにそう言われて朝の記憶が蘇ったのか、ミサトの表情が渋いものになった。確かに、偶然見つかっただけの壱万円札。
それをキープしておいたほうがいいのかもしれないと、今にしてミサトの心がぐらつく。
 そんな三人の前に、激しいスキール音と共に一台の黒い車が滑り込んできた。
「お。FDだ」
 それは旧世紀の名車、MAZDAのRX-7であった。
『いまどき、珍しいわね』
 そう思いながら車体を舐めるように見つめていると、ドアがふいに開いてシンジがよろよろと降りて来た。
「シンジ?」
「あ?アスカ?」
 目が回っているシンジを残して、黒の車はまた暴風のように走り去っていった。
 降りてきたシンジにお構いなしに、ミサトは走り去っていくRX-7に目を奪われる。
『いやーいい音ねぇ・・・やっぱり、あぁじゃないとねぇ』
 RX-7の走り去った彼方を見つめるミサトに、シンジが何かを突き出した。それでミサトは不意に我に返りシンジの方へと
向き直る。シンジがミサトに渡そうとしていたのは、紙袋に入った何かだった。
「これ、カヲル君からミサトさんにって」
「へ?あたしに?」
 不意に話を振られてびっくりしながらも、ミサトは包みを受け取った。ずしっとある程度の重さがある袋を開けて、中身を確認してみる。
 箱の中から現れたのは、フルボトルサイズのワインボトルであった。それを見たミサトの顔が、パァッと輝く。
 中に入っていたのは、ハンガリーの貴腐ワイン、トカイワインであった。
「うひゃー!トカイじゃない!やっりぃ!今日は天国ね!食って!飲んで!寝るわよぉ!!!」
 ミサトの脳裏から全ての些末な事柄は消え去り、飲んで、食べて幸せになることだけが脳裏を占めていく。
「ふふーん・・・・今日は、ホントにラッキィ!」
 店員の制止も聞かず小躍りするミサトの遥か頭上彼方で、太陽がキラリと煌いた。


終劇。




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