「ぷはぁ・・・やあっぱり朝はビール!ビールよねぇ!!」
早朝のコンフォートマンション内の葛城家に、いつもと変わらぬ能天気で幸せそうな声が響き渡った。
朝シャンをして洗面台の前で髪を拭いているアスカには、声の主を見て確かめる事はできない。しかし殆ど毎日の出来事で
あるから、声の主、葛城ミサトが幸福そうな満足そうな表情でビールを飲んでいる姿が脳裏にくっきりと浮かぶ。
『まあったくミサトったら、あんなに飲んでたら、あっという間に体型が崩れちゃっても知らないわよ』
アスカは髪をワシャワシャと拭きながらそう呟いた。
まさにダイエットを含めて美しくなることに興味が出るお年頃。しかもシンジという意中の少年と一つ屋根の下で
暮らしているとなれば、美容に意識が集中するのも無理も無い。そんなアスカにはビールの味云々の問題ではなく、
シンジのように家計云々でもなく、美容に気を使わずにビールを飲みつづけるミサトの神経が理解できない。
はらりと顔に掛かった髪を軽く撫でて、概ねタオルドライが終わった事を確認してからアスカは首にバスタオルをかけた。
そしておもむろに不満げな表情を浮かべ、宙を見つめて独白した。
『あぁんな適当な生活してるのに、ミサトってば・・・結構まともな体型してるのよねぇ』
朝は起きたらまず一杯。
昼は昼食のお供にもう一杯。
夕食はとにかくもう一杯。
その間にも喉が渇けばアルコール燃料を補給。
そんなあまりにも自堕落な生活をしている割には、ミサトの体型は、出る所は出て引っ込むべき所は引っ込むという理想的な体型
がキープされ続けていた。
『不思議だわ・・・』
そうポツリと呟いてから、アスカは鏡台に移った自分の透き通るように白い裸体をみつめた。
胸も形良く膨らんではいるし、腰もキュッとくびれているし。
だが頭に浮かぶ単語は。
「可もなく不可もなく」
そんな単語だけがアスカの頭に浮かんでは消えていく。
『まぁ・・・発展途上だもんね、アタシ』
ある意味女盛りのミサトと自分を比べる事の無意味さに気が付いたアスカは、苦笑した。そして手早く下着と洋服
を身に付けてからもう一度軽く髪を拭き、バスタオルを再び首にかけた。
すると扉越しに、苦笑の色を帯びたシンジの声が響いてきた。
「でもあれだけ同道と扉が開いていたら、はいっちゃいますよ・・」
どうやら先日、アスカとシンジがNERVで行方不明になった事を話しているらしい。
バスルームの扉を半開きにして首だけを出し、アスカも話に加わった。無造作に流れる髪は、うっすらと濡れて艶やかな輝きをたたえている。
「ミサト達があれだけ『入って欲しくないところには入れない』って言ってたじゃなぁい。そんな状況で扉が開いてて、入っても警報もな
らなかったのよ。いっくら大人しいアタシ達だって入っちゃうわよ」
「そう・・・だよね」
片手に皿を持ちながらシンジは、アスカとミサトに向かってそう言った。
そのシンジの言葉にアスカは満足げな笑みを浮かべてから、バタンとドアを閉めて再び鏡の前に戻る。
『ほぉんと・・・・アレは凄かったなぁ』
再び洗面台の鏡の前に戻り、アスカはそう呟いた。そしてヘアドライヤーを取り出してコンセントにプラグを差込み、髪を乾かし始める。
つい最近、シンジとアスカはNERV地下構内で迷子になってしまった。もうすぐ取り壊しになるという旧構内を歩き回って最後にたどり
ついたのは、グリーンシステムとして機能していただろう草原だった。アスカの脳裏に、扉を開けた瞬間にパァっと広がった草原の風景が甦る。
それまでの旧構内の閉塞感が大きかっただけに、開けた後の開放感も大きかったのを思い出す。
『あんなとこが壊されるだなんて・・・もったいないわよね・・・』
残念そうに呟いてからアスカは、ヘアゴム2つを取り出しそのうち1つを唇にくわえた。そして残りの1つのゴムとブラシを手にしてクルクルと
器用に右耳の上で髪をまとめる。軽く左を向いて結わえ具合を確認してから正面に向き直り、そしてもう一方も同様にまとめた。
『よぉ〜し、完成!』
左右のテールが形良く、満足の行く形に仕上がったのを確認して、にっこり笑ってアスカは洗面所を後にする。
リビングダイニングには、皿をしまっているシンジと、なにやら考え込むミサトの姿があった。
「うぅむ・・・」
小さなミサトの呟きを聞いて、彼女が何を考えているか、アスカにはなんとなく判ってしまう。大方、シンジに「ビールを減らしてくだ
さいね」とでも言われて、いかに言い返すかを考えているのだろう。これもいつもの風景である。
アスカは苦笑して、部屋に戻る途中でミサトの横を通りすぎざま、肩をポンと叩いて声をかける。
「ミサト・・・シンジに丸めこみは通じないわよ。だってあの間は、どう考えても天然だもん」
肩を叩かれたミサトは、目をぱちくりとさせてビールを飲む手を止め、思考も停止させたようである。
そんな事にはお構いなしに、アスカは自室へと戻った。
同年代の女の子の部屋と比べると、素っ気無いほどにシンプルな部屋であるが、置いてあるものはセンスの良いものばかり
であるのが、アスカらしい。
『さぁて、準備しなくっちゃね』
アスカはそう言うと、クローゼットをバーンと開け放して服を選び始めた。今日はレイとコムトジュールというパティスリー
でお茶をする事になっている。最近流行りの店らしく、レイが見つけてきてくれたのだ。レイは食べ物屋さんに限らず、様々な
センスの良い店を沢山知っている情報通だったりする。アスカの部屋の中にある雑貨類も、レイが探してきた店で買ったものが
少なくない。
『それにしても・・・不思議よねぇ』
赤いタータンチェックのスカートと白いブラウスを選び出してベッドの上に放り出しから、アスカは部屋着を脱ぎ捨てて
下着姿になる。そしてスカートを手にとってから不意に、アスカは不思議そうに宙を見つめて独白した。
『レイって・・・普段なにしてるんだろ?』
しばらく考えてみるが・・・謎である。しかも、なぜお洒落な店について詳しいのかも、全くの謎である。男の子とデートを
しているわけでもない。そもそも興味すら持っていないようである。
『第三新東京市の七不思議ね』
余りにも大げさな言葉を呟きながら、アスカはブラウスの最後のボタンをかけ終える。
大きな姿鏡に服装を移してチェックをしてから、アスカはにっこりと鏡の中の自分に笑いかけた。
「うーん、可愛いわね」
心の底からそう呟いてから、机の上の財布やハンカチなど諸々を手にとり、お気に入りの皮製のポシェットに放り
込んで部屋を飛び出す。
そこにはシンジと、唇に空缶を挟んでプラプラと揺らしながら、何かを考え込んでいるミサトの姿
があった。シンジはアスカにちらりと視線を向けてから、リビングダイニングの椅子の上においてあった自分の肩掛けの
バッグを手にした。どうやらシンジもどこかに出かけるようである。
「シンジ、どこか出かけるの?」
シンジは、あいまいな微笑を浮かべながらアスカに答えた。
「あ、うん。カヲルくんと・・・ちょっと」
それを聞いてアスカは垂れ目の少年の顔を思い出して、フゥと溜息をつく。
アスカは、何を考えているのか判らないカヲルが苦手である。
溜息をついたアスカの視線に、何やら思案にふけりながら黄昏ているミサトの姿が捉えられる。
何を考えているのかは判らないが、周りの声も耳に入らないらしく、プラプラと唇には今も空缶がくわえられている。
「はぁ」
オーバーに溜息をついてみせてから、アスカはミサトの脇まで行き、咥えている空缶を抜き取った。
「まぁたく、ミサトったら朝からなに黄昏てんのよ!」
それから缶を軽く振り、中身が無いことを確認してから、軽く腕を折りたたんでスイと伸ばした。
腕の先から放たれた空缶は、ゆったりとした放物線を描きながら、上昇し、下降し、そしてゴミ箱へと吸い込まれた。
「ガコン」という音がなるのとほぼ同時に声を上げたのは、シンジだった。
「うわ、すごいよ、アスカ!」
心の底からの「すごい」という感動の色を瞳の底に浮かべている。
誉められて悪い気がするはずもない。アスカは嬉しそうに胸を張る。
「あったりまえじゃない!」
口ではそういいながら、実は、自分でも入るとは思っていなかったのでドキドキしていた事は秘密である。
「アタシがこないだ、体育の授業で活躍したの見てなかったの!?」
体育の授業でバスケットボールが行なわれたときに、アスカは運動神経の良さを発揮して大活躍だったのである。
「あ、すごかったよね!こうバシュってさ」
「そう!あの3ポイントで勝ちが決まったのよね!」
無邪気に会話を続ける二人に対して、ミサトから声がかかる。
「で、今日のご予定は?」
どちらからともなくアスカとシンジは顔を見合わせ、最初にアスカが口を開いた。
「アタシはコムトジュールで、レイとお茶する予定よ」
そう言ってからアスカは腕の時計を見て時間を確認し、待ち合わせの時間から移動時間を引いて、まだ待ち合わせ
に余裕で間に合う事を確かめる。
『そう言えばシンジ、どこ行くのかしら?』
渚カヲルと会うという事だけは聞いたが、どこで何をするのかまで聞かなかったことをアスカは思い出し、シンジ
へと瞳を向ける。
その視線の先で、シンジは唇を開いた。
「えっと・・・適当なところでカヲルくんとお茶でも飲もうかと・・・」
「アンタねぇ、適当ってなによぉ」
あまりにと言えばあまりにもなシンジの発言に、アスカは思わずそう突っ込んでしまう。
超高速の突っ込みに驚いたのか、シンジは頭をかきながらしどろもどろで言葉を返す。
「えぇ!?どの・・・だって、喫茶店とかよく判らないしさぁ・・・」
その言葉にアスカは、人差し指をピッと立ててから、ビシィとシンジに指をつきつける。
「シンジ、そんなんじゃデートの時に困るわよ!」
実は、流れるようにシンジに向けられた一連の言葉は、レイの言葉の受け売りに過ぎない。アスカが所謂デートコース
やらに詳しくないのを知ったレイが、大きく嘆息しながら同じ言葉をアスカに言ったのだ。
『アスカ・・・そんなんじゃ、碇君をデートに誘うときに困るわよ』
そのときの状況がアスカの脳裏にくっきりはっきりと思い浮かぶが、アスカはそのビジョンを見なかった事にする。
だがそんな事など知る由も無いシンジは、頭をかきながら言葉にならない言葉を返すだけである。
「えっと・・・そのぉ・・・」
と、そんなシンジとアスカに向かって、後ろからミサトの能天気な声が響いてきた。
「まぁまぁ。シンちゃんとアスカがデートすれば、場所に困らないでいいんじゃないの?」
『ガイィン』
ミサトの言葉を聞いたときに、アスカの頭で確かにそんな音が響いたような気がした。そしてその音と
時を同じくして、アスカの思考が完全にストップする。
何を反論するのかわからないが反論しようとする口。だが言葉は出ない。
口は動かないのに、頬に血が集まって行くのだけが判る。
シンジとデートか。
デートかぁ。
デートかぁ・・・デート・・・。
論理思考が出来ないアスカの頭の中で、同じような単語が堂堂巡りを続ける。
そんな無意味な時間を途切れさせたのは、そんな無意味な時間のきっかけを作ったのと同じミサトであった。
グイとアスカとシンジの肩を掴んで、クルリと体の向きを変えて、玄関へと向かわせていく。
「待ち合わせ時間に遅れちゃまずいでしょ。さ、早く行きなさい」
「そんな、無理に、押さなくても、いくわよ」
あっという間に玄関へと押し出されてしまったアスカは、そう言ってからお気に入りのローファーを脚の先に
ひっかける。
しっかりとローファーをはいた所でふと気が付くと、先程までの頬の熱は、すっかりとひいていた。
『よく考えたら、なぁんであれくらいで赤くなる必要があるのよ』
自分で自分に腹を立てるアスカに対して、ミサトはお気楽そうにハタハタと手を振って見せた。
「じゃ、いってらっしゃい」
『いってきます』
といつものように挨拶をしようと思ったアスカの目の前で、ミサトがハタと手を打った。
それからごそごそと部屋着のキュロットパンツに手を突っ込んで、2枚の2000円札を引っ張り出した。
そして皺を軽く伸ばしてから、アスカとその後ろに立つシンジに対して一枚づつ手渡す。
「一応、お小遣いよん。まぁ美味しい物を食べてきてね」
貰ったお小遣いにアスカの瞳が嬉しそうに輝いた。パティスリーなどでお茶とケーキを頼むと、かなりの金額
が飛んでいってしまう。レイが見つけてくる所となると、味もハイレベルだが値段もハイレベルな場合が多いの
でなおさらである。
「ありがと、ミサト」
「えーっと・・・ありがとうございます、ミサトさん」
アスカは素直に礼をいい、それに遅れてシンジも言葉を重ねた。
「じゃ、行ってくるわね!」
貰ったお金をポシェットに無造作に放り込んでから、アスカはエアロックを開き、玄関から飛び出した。
外に出ると、太陽の光がパァッと視界全体に降り注ぎ、一瞬目の前がホワイトアウトする。
『眩しっ』
そう小さく呟いてから、アスカはエレベータホールへと向かった。
その後ろからパタパタと軽い駆け足の音が近づいてきて、そしてその音は次第に、アスカの歩く音と同期
していく。
聞きなれた後ろの足音がシンジのそれであることを確信しながらアスカは、後ろに向かって声をかけた。
「シンジ、今日は垂れ目男と、何の話をするの?」
「垂れ目って」
後ろで苦笑交じりの声があがる。
「人生相談でもすんの?」
幸運にも葛城邸のある階で停止していたエレベータに乗り込んでから、アスカはシンジにそう言った。
シンジはしばし考え込んでから、首を小さく縦に振った。
「うーん・・・そんなところかなぁ」
「なにを相談するの?」
そう聞き返すとシンジは、困ったように二度三度と視線を泳がせた後に、はにかんだような笑顔を浮かべた。
「内緒」
『人生相談って・・・なに?』
しばらくグルっと考えてみるが、シンジが人生相談する内容など思いつくはずがない。
「ふぅん・・・ま、垂れ目にだまされないようにね」
アスカのその言葉を引き金にした、なんていう事は有りえないのだが、ちょうどそれに合わせてエレベータが1階に到着
し、扉がゆっくりと開いていく。
アスカは開いた扉から外にでて道路へと向かい、それにシンジが続いていく。
「あぁ・・・・暑いわね・・・」
歩道まで出た所でアスカはそう呟いた。白い肌にジリジリと陽光が照り付けてくる。
「ホントだね・・・」
隣に並んで立ったシンジも、目を細めて空を見上げた。空はどこまでも青く、流れる雲はどこまでも軽い。
「で」
アスカはくるりと振り返り、シンジに向かって声をかけた。
「アタシはこのままバスに乗って駅の方まで出るけど、シンジはどうするの?」
「え、あ・・・・僕はとりあえず、カヲル君の所に行く事になってるから」
「オッケー、じゃ、遅れるとレイに怒られるからアタシ、先に行くわね」
時計の時間を確かめてアスカはそう言った。そろそろ、バスの乗り継ぎに失敗すると遅刻する可能性のある時間であった。
「うん」
シンジはそう短く言うと、手の平をヒラヒラと振ってみせた。
それに合わせてアスカも笑顔で軽く手を振り、バス停へと向かって一人歩き始める。
夏の陽射しを受けたアスファルトはギラギラと黒く光り、その直上の空気はゆらゆらと揺らいでは世界の姿を崩していく。
『ふぃ・・・暑いわね・・・』
思わずそう呟いたそのとき、アスカの背中に向かって声がかけられた。
「アスカ!」
シンジだった。アスカはシンジの声に歩みを止めて、振り返る。
「・・・気をつけて行って来てね」
手を振りながらそう言うシンジに、苦笑しながらアスカは言葉を返した。
「シンジ・・・子供じゃないんだから、大丈夫よ」
そしてもう一度軽く手を振って見せてから、ふたたび踵を返してバス停へと向かう。
『まぁったく・・・』
そう心の中で呟いてから、アスカはクスリと笑顔を見せた。
『でも心配してくれてるんだもんね・・・・』
軽くスキップなどしながら、アスカは小さく独白する。
「嬉しいな」
そんなアスカの遥か上で、綿飴のような雲は、ぷかりぷかりと流れていった。
数時間後。
第三新東京市駅に程近い場所にある、コムトジュール店内の2階テラス。
うら若い女性で混み合う店内に、レイとアスカがいた。
「うぅ・・・まぁったく、混み過ぎよ、混・み・過・ぎ」
パティシエ服を着た店員のお姉さんに、紅茶を1ポットと季節のフルーツタルトを2つ追加注文して戻ってきた
アスカがそうぼやく。
この店は第二新東京に本店を置く人気店の支店で、普段もかなりの賑わいを見せているが、今日はいつもにまして
賑わっていた。
「まぁ実際、結構美味しいもんね。それにあたし達もその混雑に寄与しているわけだし、言いっこなしよ」
腰を下ろしたアスカの向こう側で、レイはそう言って苦笑してみせた。
「それはそうなんだけどね・・・日本人って、つくづく並ぶの大好きだと思うわ」
ティーカップの底に僅かに残ったぬるいダージリンをすすりながら、アスカはさらにぼやく。
「そうかもね・・・行列を見ると並びたくなるのは、日本人の特性かもね」
ちょうどそこで、パティシエ服の可愛いお姉さんが、アールグレイ2つと季節のタルトを持ってテーブルへと来た。
二人は会話を止めて、ティーカップとティーポットを入れ替えてくれるのをじっとみる。
お姉さんはテキパキとテーブルの上を片付けて、食べこぼしをナプキンでふき取ると、零れんばかりの笑みをアスカ
とレイに向けた。
「どうぞごゆっくり」
その言葉に、アスカとレイはなんとなく頭を下げてしまう。
この店は、アルバイトであっても店員になるのには容姿重視の面接があり、店員教育も恐ろしく厳しいと評判の店で
ある。その成果である雰囲気の良さも、人気の秘密の一端であろう。
「ホント、ここの店員さんって綺麗よねぇ」
フゥと溜息をつきながらそう言うアスカに、ティーポットからアールグレイを注ぎ分けていたレイは、こらえきれず
ぷっと吹き出してしまう。
「すっごい美人のアスカがそれ言うと、ぜんぜん、洒落にならないわよ」
「あぁっと・・・ええっと・・・その・・・ありがと」
てれっとした表情を浮かべてそう言うアスカに、レイはもう一度小さく吹き出した。
「な、なによ」
「あ、ごめんごめん。前のアスカだったら間違いなく、こう言ってたわね」
そこでレイはティーポットを置いてから「コホン」と小さく咳をして喉を慣らしてから、ピッと人差し指を立てて
みた。そして大きく息を吸い込み。
ビシィっと指をアスカに向かってつきつけ。
「アンタ、バカぁ?このアタシが美人なのは、あぁったり前じゃない!」
お世辞にも声は似てはいなかったが、明らかに自分の仕草をよく真似ている事に気が付いて、アスカは苦笑した。
「アタシ、そこまできつくないと思うけど」
「そりゃまぁ」
レイはティーポットからアールグレイをカップへと注いで、再び言葉を続ける。
「今のアスカは、ね。でも昔は凄かったわよぉ」
スパイスの香りが漂う紅茶を一啜りしてから、レイは言葉を続けた。
「ビシバシと飛び出す『アンタばかぁ?』の前にどれだけの男が散って言った事か・・・」
「そ、そんな事、無いわよ」
「ま、多分、アスカは告白されたという認識すらないでしょうけどね」
苦笑のまま肩をすくめてみせるレイに向かって、アスカはぷぅと唇を尖らせた。
「そんな事言われたって、困るわよ」
「でも、そんなのを、まぁったく気にしなかったのが碇くんよね」
レイはざっくりと豪快に、タルトへとナイフを突き立てて切り分けながら言葉を続ける。
ナイフの下で、レイが注文した「季節のタルト」が小さな欠片へと切り分けられていく。
「碇くんも、かなりの鈍感だもんねぇ」
そのレイの言葉を聞いてアスカは、さらに唇をぷぅと尖らせ頬をますます膨らませた。
「別にシンジは鈍感な訳じゃなわよ」
「まぁまぁ。愛しの碇くんを守りたい気持ちは判るわよ」
ニコニコと笑いながらティーカップに唇を寄せるレイ。
「べべべべべつに、いいいい・・・・・」
フォークを持った手をワタワタと意味も無く振りながら、アスカはそう言葉にならない声を出す。
「それと比べると、アスカの判りやすさというか、素直さというか・・・」
クスっと笑みを浮かべてレイはフォークを手にした。
「碇くんがアスカに告白なんかした日には、どうなる事かしらね・・・」
「どど、どうもならないわよ」
フォークをぐっと握り締めて力説するアスカだが、その眼前でレイは人差し指を立てて両側にゆっくりちメトロノームの
ように振って見せた。
「ありえない」
「そんなわけないわよ」
「ありえない」
「大丈夫よ」
「ありえないっ!」
そう言ってレイはフォークをすっとタルトに振り下ろした。
季節の果物タルトを彩るメロンを貫通して、下のカスタードクリームを突き抜け、一番底のタルト生地にまでフォークは達した。
そしてフォークに物騒なまでにぐっさりと突き刺さっていたタルトを口に放り込んでから、レイは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「んじゃあ、シミュレーションしてみましょうか」
「シミュレーション?」
問い返すアスカに、レイは頷いてみせた。
「そ、シミュレーション。あたしが碇くんの役をやるから、アスカはそれに答える。それだけのことね」
「ふぅん、まぁいいわよ、やってみましょ」
唇を紙ナプキンでぬぐいながら、アスカはそう同意した。
「それじゃぁ」
そう言ってレイはまた、「コホン」と小さく喉を鳴らした。物まねをする際の儀式のようだ。
「それじゃ、いくわよ」
「オッケーよ」
数秒の沈黙の後、おもむろにレイが口を開く。
もちろん、シンジになりきったつもりで。
「アスカの事が好きなんだ。僕と付き合ってくれないかな」
言い切ってからレイは、『なんて似ていないんだ・・・』と心の中で頭を抱えていたが、アスカにとっては似ているか否
かはあんまり関係がなかったのかもしれない。
「えぇっと・・・・その・・・あぁ・・・んぅと・・・」
お湯が沸かせるかもという仄かな期待すら抱かせるほどに頬を赤く染めて。
白くて細い指は所在無さげにテーブルの上で意味不明な図形を描き。
アスカの思考は停止していた。
『ほら、やっぱりね』
意味不明な図形を描きつづける白い指を見ながら、レイはゆっくりと紅茶に手を伸ばした。
『恋する乙女ねぇ・・・青春ねぇ・・・』
そして自分の年齢を忘れたかのような台詞を呟く。
「ティリリリリ・・・」
と、思考停止状態のアスカの横の空席の椅子の上から、アスカの皮製のポシェットの中から携帯電話の呼び出し音が
周囲に響き渡る。
「あ・・・」
手指の反復運動を続けていたアスカも、その音に弾かれたようにピクリと体を反応させ、ポシェットから携帯電話を取り出した。
「そうよ・・・ミサト?」
電話の主は同居人兼保護者のミサトであったようだ。
「え?お昼?・・・それってミサトのおごり?」
話の内容から察するに、ミサトがアスカに昼食をおごってくれるという話のようだ。アスカの顔がパァッと輝いた。そして、横で
アールグレイを啜りながら人間観察を続けているレイに視線を向けた。
なぜ唐突という疑問は残るが、ミサトが昼食を奢ってくれるという椿事に乗らない手は無い。
「えっと・・・今、レイとお茶してるんだけど、レイも一緒でいいかしら?」
会話の中に突如として自分の名前が出てきたことに驚いたのか、レイがキョトンとした顔でアスカの方を見やる。
「OK?ありがと」
ミサトからOKが出たのか、アスカはにっこり笑ってレイへとVサインを送った。もっとも何の事やらさっぱり判らないレイは、
顔中に「?」マークを貼り付けたかのような表情ではあったが。
アスカはそこで声を潜めて、怪訝そうな顔で言葉を続けた。テレビカメラつき携帯でない以上、表情は伝わるべくもないのだが、
感情を伝えようとすると不要な行動が発現するのは、黒電話にお辞儀をする旧世紀以来のヒトの姿である。
「その・・・なんでまた急に?NERV、減俸なんでしょ?お金あるの?・・・ふぅん、臨時収入、ね」
どうやらミサトには何らかの臨時収入が入ったようである。
『減俸になったって言ってなかったっけ・・・パァッと使って大丈夫なのかしら?』
たしか朝、減俸になったからビールを節約しろとシンジに言われていたような記憶がアスカの脳裏に甦る。シンジが大きく溜め息を
つきそうなお金の使い方だとアスカはそう思った。
「え?シンジに電話?わかったわ、連絡しとくわよ・・・ミサト、何食べてもいいのよね・・・オッケー。じゃあね!」
アスカは楽しそうな笑みを浮かべながら携帯電話をポシェットへとしまった。そしてアスカの方を見ているレイに声をかけた。
「ミサトがキルフェボンでお昼ご飯をご馳走してくれるらしいから、一緒にいきましょっ」
「えぇ?・・・嬉しいけど・・・なんか、悪くない?」
すまなそうな表情を浮かべるレイに、アスカはちっちっと人差し指を左右に振ってみせた。
「気にしない気にしない。ミサトがおごってくれる事なんか、今後数年、ぜぇっったいないから気にする必要ないわよ」
「それじゃ・・・」
レイはにっこり笑ってペコリと頭を下げた。
「ごちそうになります」
「どーんと食べるわよ、どーんと」
自分の財布から紙幣が飛び立つわけではないのをいいことにそう言うアスカにレイはプッと笑いを漏らす。
「な、なによ」
ぷくーっと頬を膨らませたアスカに向かってレイは、
「太りすぎると碇くんに嫌われるんじゃないかしら」
と言った。
「う、うるさいわね。アタシは栄養を取ってバンキュッバンなナイスバディになるのよ、ナイスバディに」
「まぁアスカ、小さいもんね」
アスカの上半身に視線を向けながらそう言うレイ。
「べ、別に小さくないわよ。胸はこのくらいが形もいいしベストなのよ」
「あら、あたし胸が小さいとは言ってないけど」
レイはしれっとした顔でそう言った。
「あぐあぐあぐ・・・」
フォークを握り締めたまま反論できないアスカ。そんなアスカをからかって楽しんでいるレイ。
楽しそうな二人の間を、涼やかな風が流れた。
「それにしても、遅いわねぇ」
そう呟く少女はアスカ。横にいるショートカットの女性は、綾波レイ。
二人は待ち合わせ場所のレストラン「キルフェボン」の前で待っていた。
「まぁ、待ち合わせ時間にはまだあるわよ」
時計を見てばかりいるアスカに、レイは苦笑しながらそう言った。
「そうだけど・・・」
そう言うアスカの視線の先に、ブンブンと手を振り続ける女性、ミサトの姿が現れた。
「ヤッホー、アスカぁ、レイちゃーん」
それを見てアスカの顔が一気にげんなりとした表情になる。
「い、いまどき・・・ヤッホー・・・」
「まぁまぁ」
確かにそうだと思いながらもなだめるレイ。
そんな二人の前にミサトがやっと到着した。
「ごっめーん、待った?」
「いや、待ってはいないんだけど・・・」
いまだに「ヤッホー」ショックから抜けきれないアスカの隣で、レイが律儀にペコリと頭を下げた。
「葛城さん、こんにちは。今日はどうもご好意に甘えてついてきちゃって、すいません」
するとミサトは笑いながらハタハタと手を振って見せた。
「いいのよぉ、たまにはパァーっと使わないとね、パァーッと」
「あんまりパァーっと使うと、シンジにまた怒られるわよ」
アスカが半眼でそう言うと、ミサトの表情が一気に渋いものになる。
「うう・・・それは」
そんな三人の前に、激しいスキール音と共に一台の黒い車が滑り込んできた。
「お。FDだ」
車好きのミサトがそう呟く前で、ドアが開いてシンジがよろよろと降りて来る。
「シンジ?」
「あ?アスカ?」
目が回っているシンジを残して、黒の車はまた暴風のように走り去っていった。
「シンジ、今の何よ?」
「あぁ、その、カヲル君の家の運転手さんが、送ってくれたんだけど、目が、回った」
「はぁ?垂れ目の?」
「あぁ・・・うん」
やっと落ち着いたのか、シンジの瞳にやっと生気が戻ってきた。
「いや・・・怖かった・・・」
そこでシンジは視線を右手に持っていた荷物に落として、それをミサトに向かってつきだした。
「これ、カヲル君からミサトさんにって」
「へ?あたしに?」
不意に話を振られてびっくりしながらも、ミサトは包みを開いて中身を確認してみる。
箱の中から現れたのは、フルボトルサイズのワインボトルであった。それを見たミサトの顔が、パァッと輝く。
「うひゃー!トカイじゃない!やっりぃ!今日は天国ね!食って!飲んで!寝るわよぉ!!!」
ミサトは包みの中から出てきた品、ワインボトルらしきものを手にして、小躍りしながら先に勝手に店内へと入って
いった。
残された三人は、お互い顔を見合わせる。
「アスカ、トカイって何?」
「さぁ・・・アタシもわからないわよ・・・ワインみたいだったわよ」
「確かハンガリーの貴腐ワインね」
「レイ、あんた良く知ってるわねぇ」
「それにしてもミサトさん、帰りは昼から飲むつもりなのかなぁ・・・」
「多分、ミサトの事だから車よね・・・」
「・・・」
「・・・」
「まぁ・・・何とかなるか」
「アタシが居れば大丈夫よ」
「食べてから考えるのはどう?」
口々に適当なことを言いながら、三人の子供たちも店内へと吸い込まれていく。
彼らの頭上で、太陽がキラリと煌いた。
終劇。