STORY 50:Are you ready, SHINJI?






「ぷはぁ・・・やあっぱり朝はビール!ビールよねぇ!!」
 朝食の皿を洗い終え、布巾で拭いては戸棚にしまうという単純作業を繰り返すシンジの横で、このマンションの主、
葛城ミサトが幸せ感一杯の顔でそう言った。
 朝からビールを飲むという行為は、彼女にとっては特に特別な事ではなく、故にシンジにとっても見慣れた光景で
あった。
『だけどミサトさんのお給料、減ったんだよなぁ・・・ビール・・・・家計、圧迫されてるなぁ・・・』
単純計算しても、一本220円のビールが一日5本=1100円。一ヶ月で33000円。一年で・・・計算するのも嫌になってしまう。
 もちろんお中元などで頂く分もあるし、纏め買いする事で安く手に入れる努力をしてはいるが、それでも家計を圧迫している
事は間違いないだろう。普通の家ならエンゲル係数と呼ぶところでも、ビール係数とでも呼びたくもなってしまう。
 そんな家庭の事情にふと気が付いてしまったシンジは、ミサトに向かって口を開いた。
「ミサトさん・・・給料、また減ったんですから、ビールの本数は減らして下さいね」
 朝食の片づけをする手を止めないままそう告げると、ミサトは不服そうな表情を浮かべたように見えた。
「う・・・給料はシンチャン達にも原因はあるんだから・・・」
 確かにミサトの言うことにも一理ある。ミサトが減俸になったのは、一見学者に過ぎないシンジとアスカが、鉄壁の
セキュリティーを誇るはずのNERV本部構内で数時間も行方不明になってしまったからだ。
『でも・・・あの状況じゃ、入っちゃいけない所だなんて思わないよなぁ・・・』
 皿を拭く手を一瞬止めて、シンジはそのときの事を思い出す。
 完全に出入りが管理されているとミサトが自慢していた本部構内で、ぽっかりと普通に何の違和感も無く開いていた通路。
 綾波達が来なくて暇を持て余していた心理状況。
 好奇心旺盛なアスカ。
 そしてそのアスカとシンジの力関係。
 どこをどうとっても、扉に入る要素しか思いつかない。
 シンジはそれをそのまま言葉に出して、溜息をついているミサトに伝える。
「でもあれだけ堂々と扉が開いていたら、はいっちゃいますよ」
 肩を竦めてそう言うと、シンジの視界の端に、蜂蜜色をした物体がふいと現れた。
 それはシャワーを浴びに行ったアスカであった。洗面所からピョコンと頭だけを出して、シンジとミサトの会話に加わる。
髪が濡れている所を見ると、もうシャワーは浴び終えたのかもしれない。
「ミサト達があれだけ『入って欲しくないところには入れない』って言ってたじゃなぁい。そんな状況で扉が開いてて、
入っても警報もならないんだもん。いっくら大人しいアタシ達だって入っちゃうわよ」
「そう・・・だね」
 おおむねアスカの言っている事にはどういであるが、『大人しいアタシ達』というフレーズに苦笑しながらも、シンジはそう相槌を打った。
 するとミサトが、大人しく頭を下げてきた。もちろん、ビール片手に、ではあるが。
「まぁ・・・シンちゃんとアスカには迷惑かけたわね。本当にすまないわ」
 それを聞いて、シンジはにこやかにミサトに答える。
「じゃあ来月から、ビールの本数は減らしてくださいね」
「いや・・・・それはその・・・・」
 やぶへびといった雰囲気で言いよどむサトを見て、シンジは苦笑を浮かべた。
 もちろんシンジもすぐにミサトがビールの本数を減らしてくれるとなど思ってもいない。
 しかし血のつながりはなくとも、同じ屋根の下で暫く暮らしている「家族」であるから、健康の為に飲酒量は控えて欲しいというのは
本音である。酒は百薬の長ではあるが、飲みすぎが良くないのは明らかである。
『それにしても、ミサトさんってお酒強いよなぁ・・・』
 3人分の箸についた水滴を布巾でぬぐいながら、シンジは宙を見つめるミサトに視線を向けた。
『普通だったら・・・・あんな量を飲んでいたら常にへべれけな気がするんだけど・・・』
 食器棚の引き出しを引いて、箸を所定の収納位置にもどしてから、シンジは小さく笑った。
『案外、体中が肝臓だったりして』
 シンジの脳裏に、殆ど全ての臓器が肝臓化している人体解剖図が思い浮かんだ。
『それは・・・・怖いな』
 そんな事を考えながら手を動かしていると、ガチャリと音が空いてバスルームからアスカが戻ってきた。さっきまでは
洗髪後にタオルドライをしただけであったが、今は蜂蜜色の髪を耳の上できれいに二つ結びにしていた。
 アスカは自室へ帰りざま、ミサトの肩をポンと叩いて声をかけていった。
「ミサト・・・シンジに丸め込みは通じないわよ。だってあの間は、どう考えても天然だもん」
『丸め込み?天然?なんのことだろ・・・』
 いまいちアスカの発言の意図が飲み込めていないシンジにお構いなく、アスカは自室へと消えていった。
 リビングには、朝食に利用した皿をしまっているシンジと、なにやら考え込んでいるミサトだけが残された。
「さってと、あとこれでおしまいだな」
 そう小さく呟きながら、シンジは大皿を手に取った。
『時間・・・間に合うよな』
 皿をしまう前にシンジはちらりと時計に目をやった。シンジは今日は、有人の渚カヲルと遊びに行く予定が入っていた。
遊びに行くとは行っても、喫茶店でまったりとお茶を飲んで話をするくらいではあるのだが。
「さてと、これで・・・おしまい」
 シンジは最後まで残っていた箸やフォーク、スプーンを引き出しにしまうと、エプロンをはずしてダイニングテーブルの上に
畳んで置く。
 未だ腰掛けたままのミサトは、空き缶の端を前歯で加えて器用にプラプラとゆすりながら、宙を見つめてなにやら思索を
巡らせているようであった。
『給料が減った話・・・言いすぎたかな』
 ふとそんな思いがシンジの脳裏をよぎるが、彼はフルフルと頭をふってそんな甘い考えを振り払おうとする。
『いや、やっぱり締めていかないと・・・』
 気前の良いところはミサトの良いところでもあるのだが、NERVの部下などに食事をパーっとおごってしまう場合も多く、
それも葛城家の生活を圧迫しているのである。世の中には付き合いというものもあるし、『おごるのをやめたら』とは
なかなかいいづらいものがある。
『締められる所で締めないと・・・』
 シンジは男子中学生とは思えない、所帯じみたそんな思いを抱きながら、リビングダイニングの時計に目をやった。
渚カヲルと待ち合わせの時間には十分に間に合いそうである。
「さてと」
 誰にというでもなく一人そう呟きながらシンジは、自分のショルダーバッグに手を伸ばした。すると、それに合わせた
わけではないのだろうが、すっかり身支度を整えたアスカが現れた。赤いタータンチェックと白いブラウスの組み合わせが、
アスカをより可愛らしく引き立てている。
『アスカって・・・』
 心の中で呟いただけであり誰かに聞かれることなどないのだが、それでもシンジは『可愛いよな』という最後の言葉を
のどの奥に飲み込んでしまう。なんとなく、アスカをじっと見ているのが悪いような気がして、シンジは特に意味も無く
自分のカバンに視線を落として中身を確認する。昨日の夜に準備をきちんとしてあるので、特に何も忘れ物はないのではあるが。
 そんなシンジに向かって、リビングに戻ってきたばかりのアスカから声がかけられる。
「シンジ、どこか出かけるの?」
 自分の心の中を見透かされたような気がしてドキリとしながらも、シンジは何とか笑みを顔に貼り付かせてアスカに答えた。
「あ、うん。カヲルくんと・・・ちょっと」
 それを聞いたアスカは小さくため息をついてからミサトの方に視線を向けた。それにつられてシンジも視線を移動させる。
そこには先ほど同様、器用に空き缶をくわえて動かすミサトの姿があった。
「はぁ」
 アスカはオーバーに溜息をついてからミサトの脇まで行き、唇から揺れていたビールの空き缶を抜き取った。
「まぁったく、ミサトったら朝からなに黄昏てんのよ!」
 アスカはそう言ってから空き缶を軽く振り、何も音がしないことを確認してから、バスケットボールよろしく空き缶を構えた。
 しばらくそのまま溜めを置いてから。
 スイッと音も無く手を伸ばし、空き缶を空へと解き放った。缶は緩やかな弧状の軌跡を描いて、ゴミ箱へと吸い込まれて消えた。
 それを見たシンジは、思わず感嘆の声をあげてしまった。
「うわ、すごいよアスカ!」
 それを聞いたアスカは誇らしげな、うれしそうな表情を浮かべて胸を張った。
「あったりまえじゃない!アタシがこないだ、体育の授業で活躍してたの見てなかったの?」
 そう言われてシンジの脳裏に、体育の時間でアスカが大活躍した姿が浮かんだ。クラス対抗でバスケットボールをやったときに、
アスカの3ポイントシュートがバンバンと決まって圧勝したのである。
「あ、すごかったよね!こうバシュってさ」
 シンジが覚えていた事に気を良くしたのか、アスカは勢いよく頷いて言葉を続けた。
「そう!あの3ポイントシュートで勝ちが決まったのよね!」
 バスケットボールの話で盛り上がる二人に、空き缶を取り上げられて口寂しくなったミサトから声がかかった。
「で、今日のご予定は?」
 その言葉にシンジはなんとはなしにアスカに視線を向けた。するとアスカもシンジに瞳を向けて。
 先に口を開いたのはアスカだった。
「アタシはコムトジュールで、レイとお茶する予定よ」
『コムトジュール・・・あぁ、あのケーキ屋さんか』
 行ったことがある訳ではない。アスカが買っただけで読まずに放置していた第三新東京市の情報誌に、そんな名前の店が
載っていたのをシンジは思い出していた。
 するとそのシンジに向けて、アスカから『シンジはどこで何すんのよ』とでも言いたげな視線が向けられた。
「えっと・・・適当なところでカヲルくんとお茶でも飲もうかと・・・」
「アンタねぇ、適当ってなによぉ」
 当然といえば当然な突っ込みにシンジは思わずとまどってしまう。一度、カヲルの家で落ち合ってから別の場所に行く
という約束をしただけで、どこに行くとは聞いていなかった。
「えぇ!?どの・・・だって、喫茶店とかよく判らないしさぁ・・・」
 シンジの情報源と言えば、アスカやミサトがたまに買ってきて放置されている情報誌をたまにペラペラめくるだけである。
 そんなシンジに向かって、アスカは得意げにピシィと人差し指をつきつけた。
「シンジ、そんなんじゃデートの時に困るわよ!」
「えっと・・・そのぉ・・・」
 いきなり「デート」とか話がとんでしまい、シンジは答えに窮してしまう。
 そんなシンジに助け舟を出すかのように、シンジの後ろからミサトの能天気な声が聞こえてきた。
「まぁまぁ。シンちゃんとアスカがデートすれば、場所に困らないでいいんじゃないの?」
 それを聞いたときにシンジの脳裏に、アスカとデートをするというシーンがもやもやっと現れては消えていった。
『うーんデートかぁ・・・この間、ディズニーランドに行ったのって・・・デートかなぁ』
 なんとなくアスカを意識し始めたのが最近であるからか、ディズニーランドに行ったときの雰囲気が「デート」という単語と結びつ
きにくい。
「待ち合わせ時間に遅れちゃまずいでしょ。さ、早く行きなさい」
 シンジのモヤモヤっとした思考を押し飛ばすかのように、ミサトが二人の方を掴んで玄関へと向かわせていく。
「そんな、無理に、押さなくても、行くわよ」
 あっという間に玄関まで押し出されてしまったアスカは、お気に入りのローファーを脚の先にひっかけた。
 少し遅れてシンジも、いつものスニーカーに足を入れ、トントンとつま先を打ち付けてしっかりと履く。
「じゃ、いってらっしゃい」
 靴を履いた二人にそう言ってから、ミサトはポンと手を打って、キュロットパンツの中をゴソゴソと探り始めた。
ガサっと音を立ててポケットから飛び出したのは、2枚の2000円札だった。
 皺を軽く伸ばしてからミサトは、その2000円札をアスカとシンジに一枚づつ渡した。
「一応、お小遣いよん。まぁ美味しいものを食べてきてね」
『嬉しいような、倹約して欲しい様な・・・』
 ミサトの減俸の件があるので、お金をもらって使ってしまう事に複雑な心境のシンジであるが、隣のアスカは
そんなことなどお構いなしにニとコニコと笑みを浮かべていた。
「ありがと、ミサト」
 複雑な気分ではあるが、無下に断るのもなんであるし、実際のところ嬉しいのは確かであるのでシンジも好意を
受けとることにする。
「えーっと・・・ありがとうございます、ミサトさん」
「じゃ、行ってくるわね!」
 ミサトから受け取ったお金をしまったアスカが玄関から飛び出して行った。
アスカに遅れまいとシンジも駆け出し始めるが、思い出したようにミサトへと振り返る。
「あ、じゃ行って来ます。ミサトさん、ビール飲みすぎちゃだめですよ」
 あまり効果は無いだろうが一応は釘を差し、シンジはアスカの後を追った。アスカに追いつくとシンジは
小走りだった足の回転を落としてアスカの歩く速度に合わせる。
  「シンジ、今日は垂れ目男と、何の話をするの?」
   後ろを振り返る事無く、アスカが背中越しにシンジにそう問いかけた。
「垂れ目って」
 思わずシンジは苦笑を漏らしてしまう。アスカが渚カヲルを嫌い、というよりは苦手にしている事は
シンジも気がついていた。飄々とした雰囲気がアスカの気風になんとなく合わないのだろう。
 シンジがそんな事を考えている内に、二人はエレベータシャフトの前へと到着していた。偶然にもエレベータ
は葛城邸のある階で停止しており、二人は無言のままそれに乗り込んだ。
 「1」を押してからエレベータが軽い音とともに動き始めると、アスカはシンジに言葉を掛けた。
「人生相談でもすんの?」
「うーん」
 今日、渚カヲルに会うのは相談したいことがあったからではある。しかしそもそも相談などという事が必要な
レベルの話なのか、シンジ自身もよく判っていなかった。少なくとも、「人生相談」などという仰々しいほどの
事で無いのは確かである。
「そんなところかなぁ」
 あいまいに返答するシンジに対して、アスカはさらに言葉を続けた。
「なにを相談するの?」
 そう言われてシンジは答えに窮してしまう。対した事ではないのかもしれない。でもアスカには言えない。
「内緒」
 たった一言そう言ったシンジに、アスカは不審そうな表情を浮かべた。
「ふぅん・・・ま、垂れ目にだまされないようにね」
 アスカのその言葉を引き金にしたかのように、エレベータがゴグゥンという鈍い揺れを残して停止し、
扉がゆっくりと開いていく。
 「あぁ・・・暑いわね」
 道路まで歩いていきマンションという日傘を離れると、アスカとシンジの上に陽光が容赦なく降り注ぐ。
 シンジは早くもクラッと意識が遠くなるのを感じる。
「ホントだね・・・」
 空を見上げると真っ青な空と白い雲のコントラストが美しかった。
 そして隣に視線を向けると。
 空のコントラストに負ける事無く、アスカがきりりと立っていた。
『アスカって・・・綺麗だよなぁ・・・』
 そんなことを思っていると、アスカがくるりと振り返ってシンジに声をかけてきた。
「で。アタシはこのままバスに乗って駅のほうまで出るけど、シンジはどうするの?」
 アスカをぼぉっと見ていた事を見透かされたような気分になり、シンジは一瞬だけ、言葉に窮する。
「え、あ・・・」
 なんとか今日の予定を頭に思い描いて、シンジは言葉を続けた。
「僕はとりあえず、カヲル君の所に行く事になってるから」
「オッケー、じゃ、遅れるとレイに起こられるからアタシ、先に行くわね」
 アスカは腕時計を見ながらそう答えた。
「うん」
 手を振りながらシンジがそう言うと、アスカは笑顔を浮かべて歩き出す。
『さてと・・・僕も行かなくちゃ』
 コンフォートマンションよりもさらに山の手にあるマンションで一人暮らしをしているカヲルの家までは歩いて
十分弱である。ゆっくりと歩いていっても十分に間に合いそうであった。
 歩き始めたシンジであったが、なんとなく後ろを振り返るとアスカがテクテクと歩みを進めているのが目に
入る。特になんという光景でもなかったのだが、シンジは思わずアスカに声をかけてしまう。
「アスカ!」
 するとアスカがくるりと振り返った。
「・・・気をつけて行って来てね」
 自分よりずっとしっかりもののアスカにそんな事を言う必要は無いように思われたが、シンジはそう声をかけた。
するとアスカも「言われなくても判っている」とでもい痛げな苦笑を浮かべて大きな声で返してきた。
「シンジ・・・子供じゃないんだから、大丈夫よ」
 そしてアスカは軽く手を振ってから、スタスタと歩いていった。
『心配する必要は無い、か・・・そうなんだけど・・・さ』
 なんとなく寂しいような切ないような空しいような、よく判らない気持ちを抱えながらシンジもアスカに背を向けた。
「さぁてと・・・行きますか」
 モヤモヤを自分で吹っ切るように声を出してから、シンジは上り坂に挑んでいく。
 早くも焼けて熱くなっているアスファルトから立ち上る熱気は、シンジの視線の向こうでユラユラと揺れる。
「差が・・・なぁ」
 シンジのそんな呟きとは関係なく、遥か頭上で綿飴のような雲は、ぷかりぷかりと流れていった。







 数時間後。
 第三新東京市の山の手にある紅茶専門店「NATURE DANCE」の二階テラス。
 閑散とした店内に、シンジと渚カヲルだけがいた。
「えっと・・・何で誰もこないの?」
 あまりに静かな、いつまでたっても静かな店内に不安を感じたのかシンジがカヲルにそう言った。
 それを聞いてカヲルは軽く肩をすくめて答える。
「今日は閉めてもらったからさ」
「閉めてって・・・閉店ってこと?」
「そういうこと」
 事も無げにそう言うと、流麗な仕草でカヲルはティーカップを口に運ぶ。
「えっと・・・ここ、カヲル君の知り合いの店なの?」
 何がなんだか判らないシンジは、たたみかけるようにそう問いかける。
 その問いにカヲルはにっこりと満面の笑みで頷いた。
「そう。僕の家で働いていた執事が、趣味で始めた店なのさ」
「し、執事・・・」
 引きつった顔で笑いながら、シンジも紅茶を口に運ぶ。
『この人だけは、よく判らない・・・・』
 カヲルが今住んでいるのは、山の手地区にあるマンションである。しかし彼の実家は市内にある豪邸らしい
という話は聞いていたが、カヲルの言葉を信じるならばどうやらそれは本当の事であるらしい。
「シンジ君が相談なんて、よっぽどの大事だろうからね。静かに話をできる場所を用意したってわけさ」
 カヲルはそう言ってシンジにウインクをしてから、卓上においてあったベルを鳴らした。チリリンという軽い音が鳴り
わたり、ほどなくして初老の紳士が音も無く現れた。
「お呼びでしょうか」
 恭しく頭を下げる老紳士、カヲルの言葉を借りれば彼の家の元執事、に対してカヲルはまたも流麗なポーズで
指示を出した。
「次はウバで。そうだな・・・ミルクもつけて」
「かしこまりました」
 老紳士、店長にして元執事は再び頭を下げてから音も無く消えていく。
 この一連の流れを呆けたように見ていたシンジは、ため息をついてから苦笑を浮かべた。
「カヲルくんって、謎だらけだねぇ」
 それを聞いたカヲルは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ま、謎が多いくらいの方が楽しいだろ?」
「謎が多すぎだよ」
 シンジはまたもや苦笑を浮かべる。
「家もどこだか判らないしさぁ」
「学校のみんなは、誰も僕の本当の家はわからないさ」
 またもにやっと笑ってからカヲルはティーカップを取るが、すでに空である事に気がつくとガッカリしたような表情を
浮かべてソーサーへと置きなおす。そして指をピッと立てて軽く横に振りながら口を開いた。
「そもそも、噂だけで本当に、僕の実家が存在するのかも誰にもわからない」
「でも・・・さっきの人、執事だって」
 そう言うシンジを見てカヲルは軽い笑いを浮かべた。
「それも僕が言っただけだよ?彼はただの老店長かも・・・しれない」
「え・・・」
 確かに言われてみればその通りである。絶句してしまうシンジの向かいで、カヲルが爽やかな笑いを浮かべた。
「ははっ・・・シンジ君は純粋だなぁ。・・・だけど」
 カヲルはそこで言葉を切り、窓の外に視線を向けた。山の手地区でも比較的標高の高い位置にあるこの喫茶店の
二階テラスからは、第三新東京市の市街地が眼下に大きく広がって見える。
 キラキラと夏の陽光を照り返すビル群を見つめながら、カヲルは呟いた。
「道化であるのも純粋すぎるのも、過ぎたるは問題ありだ」
「へ?」
 なにやら小難しい事を言うカヲルに、シンジは怪訝そうな顔を浮かべる。
 そんなシンジに小さな笑みを浮かべてから、カヲルは二階へと上ってくる階段に顔を向けた。
「さて、紅茶が届いたみたいだし、続きはその後にしようか・・・」
 するとその言葉の数秒後に、トントンという階段を上る軽い足音が響き渡り、初老の紳士がティーポットをお盆に
載せて現れた。
「ウバです」
 ただ一言それだけを言って、店長はテーブルにティーポットとミルクポットを置いた。その彼に向かって、カヲルが言葉を
かける。
「少し話があるから、あと一時間くらいは閉店にしておいてくれないか」
 すると店長は嫌な顔ひとつせずに小さく頷き、「かしこまりました」と挨拶をしてその場をはずす。
「やっぱり・・・知り合い?」
 店長が階下に下りていったのを見計らい、シンジは小さな声でカヲルに問いかけた。
 するとカヲルは紅茶を注ぎ分ける手を止めて小さく笑った。
「彼は正真正銘、僕の爺やだった人さ」
「ふぇぇ・・・凄いなぁ」
 感嘆の声を漏らすシンジに、カヲルは何も言わずに笑みだけを向けてから、ティーカップを口に運んだ。
「さてと」
 カチャリと音を立ててカップを元の位置に戻してから、カヲルは口を開く。
「いつまでもお茶を飲んでいる訳にも行かないし、本題に入ろうか」
 その言葉にシンジは、口中で味わっていた紅茶を全て一気に飲み込んでしまう。
「えっと・・・その・・・あ・・・最近・・・」
 いきなり本題に入られてシンジは言葉に詰まる。相談したい事は決まっている。だがなんとなくバツが悪いというか
恥ずかしいというかで、言葉が出てこない。
「シンジ君の懸案は」
 そんなシンジの対面で人差し指をテーブルにリズミカルに打ちつけながらカヲルが言葉を続ける。 
「・・・そう、そうか、答えは決まっているんだけどな」
 まだ何も言っていないのに答えが判ったと言い放ち、ニヤリと笑うカヲルにシンジの視線が吸いつけられる。
「つまり・・・それが好きってことさ」
「へ?」
 唐突なカヲルの言葉に目を丸くするシンジにお構いなしに、カヲルはスラスラと言葉を続けた。
「そう、シンジ君はあの『レッドデビル』・・・というのは失礼だな、確かに彼女は人並みを遥かに超えて美人で聡明だし。
つまりシンジ君は惣流・アスカ・ラングレーが最近、気になって気になってしょうがない。思わず彼女の横顔をじっと
見ている自分に気がつく。あれ、何でだろう?これってもしかして・・・・好きなのかな?」
 そこでカヲルは固まっているシンジに笑いかける。
「って事じゃないのかい?」
 そう言われてシンジは、
「えっと・・・そう・・・なんだけど」
 消え入りそうな声で呟いて、恥ずかしそうに下を向いた。
 そんなシンジを見ながらカヲルは肩をすくめる。
「まぁ恥ずかしがる事じゃないさ」
「それで・・・その・・・」
 シンジは自分の心の中でカヲルに聞きたかった事をもういちど反芻してみる。言いたい事は決まっている。後はそれを
言うだけ。なのにその言葉が、喉のどこかに引っかかったかのように出てこない。
 カヲルはそんなシンジを優しい視線で見つめている。サァッと風が流れてカヲルの髪とシンジの髪を揺らす。
「えっと・・・その・・・僕、どうしたらいいんだろう?」
 カヲルは小さく笑った。
「さぁ。僕はその答えは持っていないよ・・・いや、持っているとも言えるかな?」
 宙をみつめて一人納得したかのように頷いてから、カヲルは再び視線をシンジへと向ける。
「シンジ君は惣流の事が好きって事は事実だよ。向かう所はどこなのか、悩むのも楽しいもんだよ」
 そう言われてシンジは表情を 少し暗くした。そしてポツリと口を開く。
「でもさ・・・アスカって・・・凄いでしょ?その・・・可愛いし、頭いいし、スポーツ万能だし・・・」
 シンジは唾を飲み込んだ。
「でも・・・僕は・・・」
 シンジが言葉を続けるよりも早く、カヲルがその言葉の先を繋ぐ。
「アスカには不釣合い、ってことかな?」
 少しの間をおいて。シンジの首が縦に振られた。シンジが最近、気にしていた事はまさにそれだった。なんとなく、自分が
アスカを好きなのかなという事は自覚し始めていた。どこがというわけでなく、なぜというわけでもなく。なぜかアスカに惹かれ
る自分がいる。アスカと話していると、アスカといると楽しい自分がいる。
 だが。
 その度に、輝いているアスカと自分の差が気になってしまう。取り立てて取り柄もない自分との落差。
 それがシンジに、もやもやとした不安を与えていた。
「ふむふむ」
 シンジの言葉を聞いたカヲルは、形良く尖った顎をなでまわしながらそう呟いた後に、両手をオーバーに広げて嘆息してみせた。
「愚問だ」
 そしてその手をテーブルにつき、脚を組みなおしてから、シンジに向かってグイと身を乗り出す。
「誰かが不釣合いだと言ったらあきらめるのかい?好きじゃなくなるとでも?」
 シンジは暫く無言になる。答えは、出ている。
 シンジはゆっくりと首を横に振った。
「だろ?そもそもシンジくんが惣流には不釣合いだなんて誰が決めたんだい?」
 カヲルは笑いながらティーポットからウバ紅茶をカップへと注ぎ込んだ。温くなったお茶にミルクを流し込み、かき回してから再び
カヲルは口を開く。
「僕から見たら、惣流なんかに、料理万能、家事堪能、グッドルッキンなシンジ君を渡すのはもったいないけどね」
 芝居がかった身振りでそう言うカヲルの言葉に、シンジの顔にも薄いながらも笑顔が戻る。
「不釣合いかどうかなんて気にする必要はないだろ。もっと自分に自信をもたなくちゃ」
『そう・・・なのかも』
 シンジはカヲルの言葉に、少し納得する。確かにアスカは凄い。可愛いし、頭はいいし、しっかりものだし・・・。
 だけど。
 自分にも自分なりの、いいところはあるはずだ。それは誰にも負けない、自分だけのスペシャルな部分。
「あきらめるのは・・・早いよね」
 小さいながら、しっかりとした顔でそう呟いたシンジの言葉に、カヲルは満面の笑みを浮かべた。
「あたりまえだよ。そもそも、クラスの女子の間では・・・」
 そこまで言ってから、カヲルは「しまった」という顔をして宙に向かって話しかける。
「ふむ・・・エントロピを増大させるような情報は不要だな・・・」
 その後、カヲルはシンジに向かって笑みを向けて、ハタハタと手を横に振った。
「最後のは聞かなかったことにしてくれ」
「えーっと・・・うん」
 何を言いたかったのかさっぱり判らなかったが、シンジはカヲルの言葉に同意を示す。
「まぁつまりは、といえば・・・まぁ僕的には、天敵を助けるのは嫌なんだが」
 カヲルはそこで小さく苦笑をした。アスカが常々、カヲルを垂れ目、垂れ目と言っている事を「天敵」と表現した
事に気がついて、シンジも苦笑する。
「つまりはだ・・・何か・・・そうだね、『大好き』はキツイだろうから」
 カヲルはそこで宙を見てなにやら思案してから再び言葉をつないだ。
「そうだね、『ありがとう』とか『凄いね』とか、色々と気持ちを込めて何かを語れば、色々と伝わると思うよ」
「う・・ん。そうだね」
「そしてもっとも大事な事は」
 カヲルがシンジに視線を向け。シンジがカヲルに視線を向け。カヲルが視線を逸らし。
「まぁ、気合入れて頑張れ」
 あまりにもあまりにな、アドバイスを全く含まない純粋な励ましの言葉にシンジは思わず噴出してしまった。そして
その効果かどうかは判らないが、フッと気が軽くなる。
「そうだね。まぁ考えすぎない事にするよ」
 シンジの言葉にカヲルは満足そうに笑った。そしてテーブルの上の呼び鈴をまたチリリンと鳴らす。
 すると程なく、老店主が現れた。今度はカヲルが手招きして店主に何やら耳打ちすると、老店主は「かしこまりました」
と言い、また階下へと消えていった。
 それを視線だけで見送ると、カヲルは不思議そうな顔をしているシンジへと視線を移動させる。
「まぁ色々と準備がね」
「準備?」
 鸚鵡返しに答えるシンジに、カヲルは曖昧に頷いて見せた。
「僕みたいな道化者には、それなりの仕事があるみたいでね」
 意味不明な事を言うカヲルに不思議そうな表情を濃くする暇もあればこそ。シンジの携帯がジリリンと、今ではほとんど現存
するとは思えない黒電話の音で鳴り響く。
 慌てて取り出して、シンジは受話器を耳に当てる。
「あ、アスカ?・・・あぁ・・・えっと、うん。今、カヲル君とお茶飲んでる」
 さっきまで話題に出ていたアスカからの電話だったのでシンジは驚いてちょっとしどろもどろになってしまう。
「え、お昼ご飯?ミサトさんが?・・・・・うーん・・・・貯金・・・・・まぁ、そうだね。じゃあ、すぐに行くよ」
 そう言って携帯での通話を終わらせたシンジに、立ち上がりながらカヲルが声をかける。
「じゃ、車で送らせるよ」
「え?あ?・・・あぁ、うん」
 電話で話しているのを聞いていたのだろうか、妙に手際のいいカヲルに若干の疑問を感じながらもシンジはカヲルに続いて
階下へと降りていった。
 人影の全く無い店内で、先ほどの店主が手提げ袋を持って二人を待っていた。
「ありがとう」
 カヲルはそう言いながら老店主から手提げ袋を受け取り、それをシンジに手渡した。
「これは葛城さんに」
「へ?ミサトさんに?」
 薄暗い店内でも判るほどの不審そうな表情を浮かべたシンジに、カヲルは軽く笑って見せた。
「地獄耳なんで、電話の内容が聞こえたんだよ」
『それは良いとして、いつ準備したんだ・・・』
 新たな疑問がすぐに湧き上がってきたシンジの思考を妨げるかのように、カヲルはシンジの肩を押して店の外に出る。
眩しい陽射しが激しく突き刺さる路上には、ゴガウっという荒々しいエンジン音を立てて黒のRX-7が停車していた。
「それじゃ、我が家の運転手が送っていくから」
「あ、ありがと・・・」
『もう何がなんだか、どこまでが真実なのかもよく判らないや』
 前から謎の多い友人だと思っていたカヲルと長く話をしたことによって、より謎が深くなったという思いを抱きながらシンジは
カヲルに礼を言う。
「まぁ気にする事はないさ。僕も楽しかったしね」
 本当に、心底楽しかったという笑顔でカヲルがそう言った。
「それじゃカヲルくん、またね」
「あぁ、シンジくん、また」
 そう言ってハタハタと手を振るカヲルの前でシンジはRX-7に乗り込み、走り去って言った。
 狂ったように暴走して遠ざかっていく車影を見届けてから、カヲルは大きく伸びをする。
「さーてと」
 そして疲れたように首をコキコキとならした。
「いやー僕には一番苦手な相談だからなぁ」
 老店主はニコニコと笑いながら、カヲルに向かって言葉をかける。
「まぁあれだけ女性の方に囲まれているカヲル様を見ていれば、得意だと誰でも思うのではないですか」
 それを聞いてカヲルは自嘲気味な顔色を浮かべながら、店内へと戻っていった。
「はは・・・本気で誰かを好きになった事が無い、未経験の僕のアドバイスが役立つかは謎だけどねぇ」
 階段を上って二階テラスに戻ったカヲルの携帯がピリリリリと軽い呼び出し音で鳴り響いた。受話器を取ったカヲルは、暫く二言三言交わした後に、
電源ボタンを押して通話を終える。
 そして後ろに影のように控える老店主に声をかけた。
「というわけで、僕は欺瞞に満ちた恋愛で遊んでくる事にするよ」
「はい。お気をつけて」
 老店主は姿勢を正してカヲルに会釈をする。
 その会釈に軽く頷いてから、カヲルは何とはなしに眼下に広がる市街地を見つめる。
「羨ましいねぇ、シンジ君」
 そう呟くカヲルの髪を、涼やかな風が揺らしていった。







 暫く後。
 シンジはRX−7の中で、半端ではない恐怖感を味わっていた。
 この車の運転手は、カヲルの家の運転手となのる身なり正しく礼儀正しい老紳士であったのだが、運転は顔に全く
似合わず恐ろしいほどの暴走であった。どこにもぶつからず、何も引かずに走っているところをみると腕はかなりのもの
なのであろうが、乗っているシンジにとってはそれどころではない。
「ふぇぇ」
 目が回っているシンジに向かって、老紳士はにこやかに声をかけた。
「あ、もうつきますよ。お待ちの方がいるみたいですね」
「あ・・・そうですか」
 そうシンジが答えるや否や、車は激しい横Gをシンジに与えながら半回転し、そのまましばらく滑って停止した。
「ふぇぇぇ」
 恐怖で腰を抜かしかけているシンジに向かって、老紳士はまたもやにこやかに笑って見せた。
「おまちどうさまでした。キルフェボンです」
「ふぇ・・・ありがとうございますぅ・・・カヲル君によろしくぅ」
 こんな状況でも礼をしっかりと言うところがシンジらしいといえばいえなくもない。
 おぼつかない足取りでよろよろと車から降りて後ろ手でドアを閉めると、そこにいた少女、アスカから声がかけられた。
「シンジ?」
「あ、アスカ?」
 意識が若干朦朧としているものの、シンジはそう答える。
 爆音を立てて走り去っていった車を目で追いながら、アスカはシンジに問いかけた。
「シンジ、今の何よ?」<br>  少しずつ気分が落ち着いてきたシンジは、気持ちを整理しながら言葉を選んで話し始める。
「あぁ、その、カヲル君の家の運転手さんが、送ってくれたんだけど、目が、回った」
「はぁ?垂れ目の?」
「あぁ・・・うん」
 やっと余裕が出てきたシンジは小さくため息をついてから、言葉を続けた。
「いや・・・怖かった・・・」
 そこでシンジは右手に持っていた荷物に気がついて、それをミサトに渡す。
「これ、カヲル君からミサトさんにって」
「へ?あたしに?」
 不意に話を振られたミサトは、驚いた表情をしながらも包みを受け取り、ガサガサと開けて中身を確認した。
中身を見たミサトの顔が、パァっと明るくなる。
「うひゃー!トカイじゃない!やっりぃ!今日は天国ね!食って!飲んで!寝るわよぉ!!!」
 ミサトは包みの中から出てきた品、ワインボトルらしきものを手にして、小躍りしながら先に勝手に店内へと入って
いった。
 残された三人は、お互い顔を見合わせる。
「アスカ、トカイって何?」
「さぁ・・・アタシもわからないわよ・・・ワインみたいだったわよ」
「確かハンガリーの貴腐ワインね」
「レイ、あんた良く知ってるわねぇ」
「それにしてもミサトさん、昼から飲むつもりなのかなぁ・・・」
「多分、ミサトの事だから車よね・・・」
「・・・」
「・・・」
「まぁ・・・何とかなるか」
「アタシが居れば大丈夫よ」
「食べてから考えるのはどう?」
口々に適当なことを言いながら、三人の子供たちも店内へと吸い込まれていく。

彼らの頭上で、太陽がキラリと煌いた。

終劇。




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